アルバム 1972年 昭和47年~ あの頃の写真 青年期

1981年 昭和56年9月 29才

長野県車山にて なんだこの髪型はっ,,! いったい何があったんだ!

20代後半も色んなことがありました。 かくして私は29才にして独身最後の年を迎えることとなりにけり、、(^_-)

1980年 昭和55年9月 28才 沖縄国際通り CHAMP にて 慰安旅行、初めて乗った飛行機で行ったのは沖縄であった。 喫茶店好きな私はさっそく旅先でもコーヒーを一杯、沖縄現地のコーヒーの味の薄さには驚いた。当時の話。

1978年 昭和53年9月10日 26才新大阪センイセンター御一行 この時期は商売の修行よりも人としての修行を重ねたような気がする

1978年 昭和53年9月10日 26才 馬篭 藤村記念館血につながるふるさと心につながるふるさと言葉につながるふるさと

1977年 昭和52年8月 8ミリ映像、数分の短い記録フイルムが姪っ子のところから出てきた。 2013年 平成25年3月のこと、早速あの頃を思い出しながら編集してみた。 35年後の今日、どこからでも鑑賞可能なことがとても嬉しい。\(^o^)/

1977年 昭和52年7月3日 25才、伊勢志摩パールロード一科目単位不足で留年、 平日は社会人、土曜日は学生として一年間苦手な英語の授業を受けた、 一般教養を通常2年で終えるものを5年掛けて無事終了、これで卒業だ、バンザイ! 土曜日の深夜になって後輩たちとドライブすることになり 夜の国道を巡り回って早朝に行き着いた所がここ伊勢志摩だった

1976年 昭和51年9月5日 24才、 伊勢自動車道にて   今では考えられないシチュエーションで記念写真   私はまだ学生で車は無く弟の車で二人連れ立って三重県二見ヶ浦まで、 下宿へ帰らねばならない期日にも関わらずこの日は想定外の一泊ドライブ旅行となった、 車中では弟の悩み事など色々と聞くことになったのだ、、

1975年 昭和50年7月 23才3回生 伊豆七島 夏の新島 誓いの塔にて ひょんなことから友人の代わりに夏の民宿でバイトすることになった。 民宿ギンギーと言って名前がとても変わっていたのでよく覚えている。 民宿のおばちゃん今も元気かな、、、 私はもともと海っ子であったので軽い気持ちで引き受けることになった。 島の暮らしに違和感はなかった。高校生のみんなからは島のお兄さん!て呼ばれていた。 朝5時に入港する客船の客の送迎から民宿の一日が始まる、 素朴な島での健康的で規則正しいひと夏の経験は後の私に大きく影響を与えている。朝は早かったが三食と昼の3時間ほど自由時間付きで一日1200円のバイト料だった。

1974年 昭和49年9月 22才、2回生 奈良猿沢の池 近鉄生駒駅から数分のところに下宿はあった。とてもラッキーだった。 入学式のあと学生課でどこかに下宿ないでしょうかと尋ねると いま下宿のおばさんがここに来てますよ、と職員がおばさんと引き合わせてくれた           そのままおばさんの車に乗って生駒の下宿までそして部屋を見て即決めた。 車の中で下宿は今年からだからみんな一年生だよとおばさんがにこやかな顔で話してくれた。 私は貧乏学生だったがこのご縁あって一風古ぼけた木造りの下宿屋で4年のあいだ充実した学生生活を送ることになる。

1974年 昭和49年8月 22才 白石島にて

高校時代の友人、男3人でボートを借り今子浦より一キロ沖合に浮かぶ白石島に上陸、夏の海を満喫。

1972年 昭和47年、二十歳 この時期の私はうつ状態だった。

1973年 昭和48年4月 生駒の下宿にたどり着くまでに高校での3年間の下宿生活、 名古屋で1年の下宿生活(二十歳)があり、 13才の時から親元を離れ社会で2年、再び学生、 昭和52年4月 25才 学生と社会人の両立、そして1978年 昭和53年3月 26才にして大学卒業、晴れて社会人として自立するまでのこの遍歴を顧みて 誰よりも最後まで望みを捨てなかった自分自身にご苦労様。さあ、これからだ! みんなより出遅れてしまったけれどハッピーにならなくてはと、、
30才にしてやっと結婚、人生のスタート地点に立った思いだった。